高岡の歴史にまつわる場所をご紹介します。
上倉永の筭術(さんじゅつ)塚
上倉永自治公民館にあり「そろばん塚」と呼ばれています。
右側には「明治廿四年二月十五日」(1891年)左には「豊後国竹田産 安藤新左衛門 代授 芳野久市」とあり、筭(さん)は算の古字でそろばん、算木の意味があります。
「孜々黽勉算學ノ蘊奥ヲ窮ム(ししびんべんさんがくのうんのうをきわむ)」とあり、こまめにこつこつと勉強したので、数学の奥深いところまで達することができたということだそうです。
星崎宋右衛門、本崎市之助、福満金四郎、小ケ倉長二郎、寺迫萬次郎はじめ長友幸右衛門や本崎米吉などの名前があり、数学者安藤新左衛門、代授 芳野久市への感謝をこめてこの石碑が建てられたものと思われます。
同じように下倉公民館にも「筭塚」がありますので、そのころ、穆佐には数学を勉強した人がたくさんいたことがわかります。
(首藤光幸著「高岡の碑」から)
市来家長屋門
高岡は、関ヶ原の戦いのあと、島津領内各地から武士を移住させて治めていました。島津藩では、武士たちが住むところを〝麓″と呼んでいました。
高岡麓、穆佐麓などが今でも残っています。
高岡郷麓の武家門は、長屋門、観音開門、引戸門があります。長屋門は、門の両側または、片方に、部屋があります。高岡町内では、この市来家長屋門が唯一残っていて、市有形文化財に指定されています。 建築年代は不明ですが、安政5年(1858年)の大火の後に再建されたものと考えられています。市来家長屋門は、門と長屋の棟の高さが違う初期の形で貴重なものです。
市来家は、享保10年(1725年)に第6代善助が、柔術渋川流の師範に、天保年間(1830年~1844年)には第12代政徳が、剣術真影流の師範となるなど武術の家柄として栄えました。(案内板他から)
天ケ城城址
天ケ城から見下ろす眺望は素晴らしく、高岡町のシンボルとなっています。天ケ城という名前は、関ケ原の戦いの後、島津義弘が東の国境を守る拠点として、久津良名(くつらみょう)に城を築いて天ケ城と名づけ、12ヶ村を包括して高岡としました。1615年の一国一城令によって廃城となりました。比志島国貞を初代城主として、島津領内から七百人余りを移住させて城下町的な機能を持つ麓地区を形成しました。
島津藩は去川の関のさらに外にあるので、高岡、穆佐、綾、倉岡は「関外4ヶ郷」と呼ばれ、高岡がその中心でした。
江戸時代になり、参勤交代がはじまると、地頭仮屋が藩主の宿所になるなど、高岡郷は経済や、流通の要所として栄えていきます。
和石の里程標
和石集落から四家へ抜ける町道沿いに「里程標」があります。
高さ130cm、縦横30cmの四角柱です。地域の方が案内板を立てていますのですぐにわかります。
(正 面) 距宮崎元標八里東諸縣高岡村
(右側面) 山下駅へ壱里拾六町四拾七間四尺
(左側面) 有水駅へ貮里参拾壱町拾七間四尺
(裏 面) 明治四拾五年二月改築
正面の宮崎元標まで8里は、約32Kmになります。右側の山下(去川)までは、5814mになります。
約30cmの尺の単位まで、記載されているのはすごいですね。どうやって測ったのでしょう。
和石には、薩摩街道の茶屋があったといわれ、江戸時代は栄えていたそうです。明治19年には、宮崎から高岡を通って高城への街道が国道38号線に指定されました。当時和石の近くは三号坂と呼ばれる急傾斜の難所だったそうです。裏面に明治45年に建て替えられた(改築)と書いてあります。
耳ほげ地蔵
宮水流の小高い丘には昔「香飯山光明院飯山寺」があり、小山田の「先心山悟性寺」麓の「臥龍山天正寺」とともに穆佐の三精舎と呼ばれていました。その飯山寺があった山裾に祇園様があります。祇園様の建立はいつの頃か分かっていませんが、明治初めの廃仏毀釈で唯一、六地蔵が残っています。
右が大師様、中央が地蔵様、左が祇園様です。この地蔵尊は耳の病気(奇)や皮膚病、イボ、シラクモなどに霊験があると言い伝えられています。耳ほげ地蔵と呼ばれ、穴あきの小石を奉納して祈願すれば難聴も全癒するといわれています。たくさんの穴ほげ石が奉納されています。(取材では、宮水流自治公民館長長谷川幸一様、宮水流
さんさんクラブ会長鬼塚良昭様にご協力いただきました)
金剛力士像
龍福寺は鹿児島の福昌寺の末寺で、1600年に島津義弘が高岡郷創設の際に創建しましたが、寺は残っていません。
龍福寺墓地の入口に立っている金剛力士像は、昭和54年に町の文化財に指定されました。
1700年代に、高岡の豪商横山勘兵衛が寄進したと言われていますが、作者はだれか残されていません。優れた技術を持った仏師だったのでしょう。金剛力士像は寺の守護神でした。金剛力士は、仁王とか二王とも呼ばれています。口を開いている阿像は、那羅延堅固といい大音声を発しながら敵陣に飛び込みます。一方口を閉じている吽像は、密迹金剛といい閉口して逃げまどう悪魔たちを撲滅します。
また開口は心の目を開き宇宙の真理を悟ることを教え、閉口は煩悩による一切の悪魔を遮断することを教えているとも言われています。
東郷 外記の墓
飯田公民館前の墓地に『げきどん』の墓があります。げきどんは、江戸時代中ごろに高岡の辻に住んでいた東郷外記というとんち者です。
跡江のはんぴどん(鬼塚半平)とは仲の良い友達でした。
――或る時、島津の殿様が外記どんを試してみようと鹿児島のお城に招いた。外記どんはわたしの話に、殿様が「そりゃ嘘じゃ」と言やるからと、大判小判を賭けて話し始めた。『私ども百姓町人は、殿様の行列のたびに土下座をせにゃなりもさん。カラスは殿様よりも偉いと思うちょりまして、行列の上でガァガァ啼くやら、この前どま殿様の背中に糞をたれもした。すぐに付き添いが「お召替え」とあっという間に新しく着替えなされた。
また行列が進んだところで、今度は殿様の首に糞が落ちてしまった。すかさず付添いの者が「首のお取替え」と大声で叫びさっそく・・』殿様は思わず「そりゃ嘘じゃ」と言って、首をなでた。外記どんは殿様から約束の大判小判をいただいて高岡へ帰ったという。
(高岡町史下巻から一部省略しました)
高木兼寛顕彰碑
旧穆佐小学校の西側に、昭和31年に高木兼寛の業績をたたえて、東京慈恵会医科大学同窓会宮崎県支部の名で建てられています。
碑には『高木兼寛先生は嘉永2年9月15日この穆佐白土坂猿ヶ窪の大工高木嘉助さんの家に生まれ幼名を藤四郎といいました。小さい時から家事の手伝いをしながらよく勉強しましたので、24歳でりっぱな海軍軍医になりました。・・・
こうして大正9年4月13日72歳で亡くなるまで、その生涯を國のため世のため人のためにささげました。ここに兼寛先生顕彰碑を建てて母校への報恩の微意を表すと共に、先生の偉大なる業績と高い徳を後世に伝え後進の教育の資といたしたいと思います』と小学生に呼びかけるように書かれています。(文中略しています)
島津忠国誕生杉
穆佐城が史料にあらわれるのは南北朝時代。15世紀初めに島津氏が入城しました。
後の島津家第9代当主島津忠国が穆佐城で誕生したことを記念して植えられたものです。
『三国名勝図会』には、「この杉、周囲三丈余(約9m)、両株の間は約3尺(約1m)隔たり、根や幹、枝が巨大に欝茂し、・・・高く聳びゆること数十丈(1丈は約3m)横に枝葉の覆ふこと1段(反)ばかり・・・」と書かれています。
初代の杉は明治7年に焼失し、現在は明治20年頃に植えられたものが残されています。
(市教育委員会案内板他から)
曽我墓
高岡小学校の西側にある五輪塔で、「曽我物語」の曽我十郎祐成と五郎時宗を供養したものです。
いつごろ建てられたのかは分かりませんが、県内の曽我墓に応永7年(1400年)とありますので、高岡が伊東領であった頃に建てられたのでしょう。
かつて県内には60余りの曽我供養墓があったそうですが、現在は2市4町に残っています。
曽我兄弟は富士の裾野で父の仇工藤祐経を討ちますが、この祐経は日向伊東氏の祖先にあたります。曽我兄弟に仇討された伊東氏ですが、同じ血縁でもあり、兄弟の怨念を鎮めるために祀ったものとみられます。
(首藤光幸著 「高岡の碑」より)
本永寺原の三師塔
松尾山本永寺は、今は高岡小学校の近くですが、建武2年(1335)日朝上人が佐土原に開山した後、都於郡や久津良(高岡町麓)などへ遷りながら、文禄年間(1595)に浦之名に中興しました。
浦之名の本永寺原と呼ばれているところに本永寺があったころは、学頭職(本山住職に次ぐ地位にあり学事を統括する役)の寺として盛んであり、塔中も数ヶ寺ありましたが、明治初年の廃仏毀釈で伽藍はもとより多くの聖教類も焼失しました。
現在、この地には、日蓮上人、日興上人、日目上人の三師塔を中心とした石塔群と数百メートル離れたところに日要上人、日我上人らの供養塔など500基近くの巨大な石塔群が残っています。
(高岡町ㇾクリエーション協会のパンフレットから)
穆佐麓の青面金剛
穆佐小学校入口に天満宮があります。ここに高さ1.3メートルの庚申塔(こうしんとう)があります。近くの天正寺跡から移されたものです。
この庚申塔には、三目六臂(さんもくろっぴ)の青面(しょうめん)金剛(こんごう)が彫られています。元禄17(1704)年の年号があります。
青面金剛は、夜叉神ともいわれ、60日に一度巡ってくる庚申の夜に眠ると、体内から三尸(さんし)という虫が抜け出してきて寿命を縮めるといわれ、この三尸を押さえる神をいいます。
左手は上から、月輪、金剛鈴、矢を。右手には日輪、三鈷杵、弓を持っています。
髪は逆立ち、首飾りや腕釧をつけ、額には一眼があります。両足で二匹の鬼を踏んづけ、左右の下には猿と鶏がいます。
(首藤光幸著「高岡の碑」他から)
赤谷の石橋
赤谷交差点南の県道にかかる石橋が、赤谷の石橋です。明治20年代に肥後の石工岩永三五郎系の技術をくんで作られたものだそうです。
石橋の高さは3.7メートル、幅は11.5メートルあり、スパン(支柱間の間隔)は5.5メートル、百数十年を経た今でも丈夫です。壁石は長さが90センチ、厚さ60センチ、幅40センチで横目地が一直線になる布積と呼ばれる技法で作られています。平成17年の台風の後、根石の下から枕木の敷設が見つかり、当時の石工の高い技術が伺えます。
この石橋は平成14年に市指定有形文化財に指定されています。
(現地案内板及び首藤光幸著「高岡の碑」から)